連載 No.7 2015年6月28日掲載

 

表現しきれない植物のエネルギー


個人的なことかもしれないが、夏の撮影は冬に比べて苦労が多い。

単純に、スズメバチ、マムシ、熊などの危険な動物、そして高い気温と湿度によるフィルムの変質にも気を使う

1年を通していろいろな場所に撮影に出かけるが、仕上げた作品となると、寒いところの景色が多く、

結果的に、仕上げやすい被写体を求めて、長期の撮影は冬と言うサイクルができてしまった。



 この作品は珍しく夏の撮影。真冬に何度も足を運んだ場所だが、構図が決まらない。

それならと思い、真夏に出かけて、やっと仕上がった一枚。

廃墟の中の零れ落ちてくる光。モノクロームだから季節感は少ないが、植物の輝きを見ると、

ああ、冬ではないのだなと気づく。生命のエネルギーなのか、色彩を感じるような不思議な感覚。



被写体の魅力は、冬も夏もそれぞれに感じるのだが、、正直に言ってしまえば、夏のほうが仕上げるのが難しい。

季節の移り変わりがはっきりしている北国の場合、

冬は雪に包まれて色彩が少なく、モノクロームの表現には好都合。

夏になると大地は植物の色を鮮やかにし、たくさんの色彩に包まれていく。

何かに感動して撮影しても、いざ仕上げてみると、まったく印象が違ってしまう事がある。

モノクロにすると、つまらない。生命力を感じない。



それはモノクローム特有の問題なのか?フィルターもフィルムもいろいろと試したがうまくいかない。

ならば、カラーなら表現できるのか?

そう思ってカラーフィルムでも撮影したが、それも、表現に奥行きがなく自分の印象には届かない。



植物のエネルギーを強く感じる被写体。

緑の蔦に覆われた廃墟や、屋久島の森など何度も足を運んだが、結局一枚も仕上げられずにいる。

つまり、自分には「「強すぎる」のかもしれない。

南の植物の激しい生命力、強い日差し、それを受け入れるにはとても、大きなエネルギーが必要なのだろうか。

どんなに美しいと思っても、自分の中に受け入れるだけの準備が出来てなければ取り込むことは難しい。

その場の感動が大きければ撮れるというものではないのかもしれない。



私にとって写真とは、受け入れる芸術だ。

芸術だから、結果的に何かを表現すると言うことになるのだけれど、

その場で感じているものは渇きであり、何かへの欲求だ。

その空間で受け取れるもの、自分の中で探していたものが一致した時だけ、美しいものが生まれてくる。



1998年の撮影だから15年以上前になる。

下北半島の漁港に泊めた車内で夜を過ごしていると、静かに通り過ぎる子供たちとねぶたが見えたから、夏休みの頃だろう。

その後、何度かこの場所に出向いたが、新しい作品はひとつも仕上がらない。